投稿映像の萎え要素を語る~舞台が整い過ぎ!!編~

ほん呪をはじめとした投稿映像系のホラー作品では、「これ作りもんだな」とか「そうはならんだろ」となるような萎え要素が結構ある。

今回は、そんな萎え要素の1つである「舞台が整い過ぎているパターン」について語ってみる。

 

「舞台が整い過ぎているパターン」とは、前振りが長かったり、いかにも出てくるようなフラグが立ちまくっていて、初見でもオチが分かってしまう現象と定義している。

発見系でよく起きる現象で、本ブログでいうところの恐怖度やインパクトがガタ落ちする要因となっている。

 

これが萎え要素となる理由は、オチが予想できることで身構えてしまうことにある。

特にホラーは初見が一番怖いと言われているため、初見でもオチが読めてしまっては怖さが半減してしまう。

個人的には、インタビューでネタバレするのも萎え要素となりえるので控えてほしいが、レビューではできるだけ触れないようにして評価している。

 

勘違いしてはいけないのが、投稿映像が長ければ舞台が整い過ぎているという訳ではないということ。

前振りから予想されるオチがそのままくるから萎えてしまう訳で、予想外のものが来れば意外性による恐怖を生み出すことができる。

例えば「疾走!(Special5)」はインタビューでネタバレしているが、人体実験が行われていたという廃墟(本当は結核病棟)では何も起きず、その帰り道で突然、頭のない男が絶叫しながら全力疾走するという不意打ちの塊によって、シリーズ屈指の恐怖を生み出すことに成功している。

また、「白面の女」や「占い師 中編(どちらもパート29)」、「夜警(パート51)」などは、最初にショボいのを見せて、何だこれかと油断したタイミングで本命を見せるという力技で恐怖のどん底に陥れることに成功している。

 

舞台が整い過ぎているパターンが増えたのは、ほん呪だと岩澤演出期辺りから。

投稿映像そのものにストーリーがある、いわゆる劇場型が増えたのと、派手な幽霊が求められるようになったのが原因だと思われる。

実際、岩澤演出期だけでも「証拠ビデオ(パート43)」「ビジネスホテル(パート46)」「泥人形(パート47)」「闇鍋(パート48)」「頭のおかしい女(パート49)」「警察人形(パート50)」「染みの記録(パート52)」「見えぬ踏切(パート54)」「黒い女(パート55)」などが該当し、軒並み評価を落としてしまっている。

だがそれだけではないのが岩澤演出の手腕で、「正彦シネ(パート42)」や「首の家(パート46)」ではオチのタイミングをワンテンポ早くすることで予想する隙を与えず、インパクトを持たせることに成功している。

 

問題なのは菊池演出期以降で、幽霊の「顔」でインパクトを与えようとしているケースや2段オチが増えた結果、ほとんどが舞台が整い過ぎているパターンに該当してしまっている。

特に、声が聞こえる、ちらっと映るなどの前振り→わざとらしいカメラワーク→本命出現というパターンがかなり増えてしまったと思う。

個人的に最悪なのが「ゆれる(パート78)」で、ブランコがひとりでに動く時点でオチが予想できるのに、ブランコがひとりでに動く→ブランコを止めるを無駄に2回繰り返し(時間にして90秒以上)、ようやく子どもが登場という「分かっとるわ」としか言いようのない内容だった。

 

ただ、いきなり事象を見せればいいかというとそうでもない。

余りにも早く出過ぎると余韻がないし、出オチみたいなやつは本ブログでいうところのシ⤴ネ⤵評価になることもある。

オミさん、あんたのことだぞ。

そのバランスがうまく取れたとき、新たな名作が生まれると信じている。